『無私の日本人』磯田道史
『無私の日本人』磯田道史
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磯田道史の『無私の日本人』である。

本作は穀田屋十三郎たち、中根東里、大田垣蓮月という人物たちの生きざまを描いた三部の評伝で成っている。
いずれも苛烈なまでの慈恵の心を持った清廉な市井の人たちである。

ノンフィクションではあるが小説のようにも描かれ、その語り口は、司馬遼太郎とも似ている。
そういえば、司馬遼太郎は日本が江戸から明治にあれほど見事に変わることができたのは、役人になった日本人が恥の思想を普通に持ちえていて横領や収賄をしなかったことが大きいというようなことを書いていた。

本作で取り上げられた人物たちは、いずれも恥といった思想の、そのまた先にある哲学に至った人物たちである。
いにしえに、こうした人たちがいたということを知っただけでも人生のプラスになるのではないだろうか?

2018年1月のニュースによれば、世界で最も豊かな上位1パーセントが、世界で1年間に生み出された富(保有資産の増加分)のうち82パーセントを独占しているという。(国際NGO「オックスファム」の報告)
そんな、彼らに読ませたいと思った。
翻って「あんたはどうなの?」とブーメランのように、自分にも返ってくる話ではあるのだが…。

穀田屋十三郎たち

時代は八代、吉宗の時代が終わり、徳川家重が将軍となった頃である。
現在の宮城県黒川郡大和町吉岡という仙台藩の下にある宿場が舞台となる。
主人公の穀田屋十三郎は代々続く浅野屋という商家に生まれたが、訳あって穀田屋という浅野屋からほんの数軒、離れた造り酒屋に養子に入った。
当時の吉岡は半農の二百軒ほどが軒を連ねる貧しい宿場町だった。
吉岡の住民を悩ませていたのは年貢の他に求められる伝馬役という大きな負担だった。
穀田屋十三郎はじめとした吉岡宿の有志数名は、このままでは町自体が疲弊してしまい住む人がいなくなってしまうのではないかと危惧。
そこで彼らは、仙台藩に千両を越えるお金を貸し、その利息を藩から受け取ろうと計画し実行に移す。
一部の商家では商売が傾きそうになるほどの私財を投げ出し、紆余曲折を経ながらも、彼らは藩から利息受け取ることという目的を成就させる。

彼らがイイのは計画を実行するにあたり、綿密に考え筋道を通し根回しをしっかりと行いながら物事を進めていったことだ。
しかも、そのときに大きな役目を担った有志数名は、計画が成ったとしても顕正されたり、そのことで後世に名を残したりしないと誓いあっていた。

中根東里

中根東里は江戸、元禄時代に伊豆の下田で生まれた。
13歳のとき、三河国出身の農民であり医師でもあった父が死去。
母の勧めで出家し地元の禅寺で僧となるが唐音(中国語)を学びたいと求め、のちに京都の黄檗山萬福寺の僧に師事する。
しかし、禅の修行に目的を持てず、学問がしたいがために江戸駒込の浄土宗蓮光寺に移り大蔵経を読みふけった。
この頃、荻生徂徠と知り合い入門し還俗した。
東里、二十歳の頃である。
その後、徂徠学の説く儒学に疑いを抱くようになり、朱子学に傾斜して、享保元年(1716年)23歳で加賀国金沢(現石川県金沢市)の室鳩巣に師事。
当時の最高の頭脳といってよい二人の教えを受けたにもかかわらず加賀藩への仕官の口を断り
さらに後年、陽明学に転じた。

純粋に学問に生きたといっていい人生である。
自分で好きな学問をしたいがために赤貧洗うが如しといった暮らしに身を置いた。
貧乏ではあるが、これはこれで羨ましいという感じがしないわけではない。

大田垣蓮月

大田垣蓮月は幕末から明治にかけての女流歌人。

蓮月の父は、藤堂高虎の血筋を引く伊賀国上野の城代家老、藤堂新七郎。
母は新七郎が京屋敷の普請の際に上洛してきた折、知り合った芸妓だという。
いうなれば、妾の子である。
新七郎は生まれたばかりの蓮月を京都知恩院門跡の寺侍、大田垣光古(もとは山崎常右衛門)に預け、後に光古は蓮月を養子にする。
彼女は子どものころから容姿端麗で知られるが、その美しさを疎ましく思い歯まで抜いたという。
なかなか、苛烈な人でもあったようだ。

また、和歌や裁縫、舞などの習い事も教えるほどの腕前になり、ほかにも剣術や柔術などの武芸にも秀でていた。
とはいえ、決して幸せな人生ではなく33歳の時、再婚した夫が病死したのを機に尼となった。
後に、自分の短歌を彫った手作りの陶器を売って生計を立てるようになる。
やがて陶器は蓮月焼きといわれ人気を博するようになるが、彼女自身の生活はつましく質素なものだった。
しかし、飢饉の際には大金を奉行所に届けたり、私財を投じて鴨川に橋を架けるといったことも行った。

明治期の文人、富岡鉄斎は子供のころに彼女の薫陶を得ている。

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