『一九八四年』ジョージ・オーウェル
ジョージ・オーウェル『1984』
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ジョージ・オーウェルの『一九八四年』を読んでみました

翻訳は高橋和久の新装版。
ディストピア小説のマスターピースとして知られる作品ですが、初めて手にしたのは高校生の頃だったような記憶があります。
確か、当時は純粋なSFとして手に取りました。
以来、何度かトライしたのですが、どうにも、つまらない。
そんなわけで、途中で挫折したという記憶しか残っておらず、改めて再読してみました。
で、やっぱり、面白くはなかったのですが、何とか最後まで読み終えました。

そんなわけで、決して面白い小説ではありません。
しかし、今日の世界や社会の趨勢を思えば、なんと示唆に富んだ小説なのかと…。
様々な多くの考えさせられるものがありました。
ま、教養として読んでみては、いかがでしょうか?

恐ろしい全体主義の社会

物語のあらすじは、次のようなものです。
世界はオセアニア、ユーラシア、イースタシアという三つの国で成り立っている。
主人公のウィンストン・スミスはオセアニアという戦時下にある旧英語圏の国に住む39歳の男。
オセアニアという国家はビッグブラザーという正体不明の人物?を党首とし、イングソック(全体主義の亜種)というイデオロギーを党是とする党が支配していた。
常に物資は欠乏し各世帯にはテレスクリーンといわれる監視カメラ付きのテレビモニターが設置されている。
「戦争は平和である」、「自由は屈従である」、「無知は力である」という三つのスローガンのもと一般市民の自由や権利はなく、街には隠しマイクと「ビッグブラザーがあなたを見ている」というポスターがそこら中に張られているといった全体主義社会である。
真理省という過去を捏造する部署で働くウィンストンは、こうした社会に疑問を感じてしまう。
ある日、ウィンストンはジュリアという娘に「あなたを愛しています」という紙片を渡される。
恋愛さえも管理される社会で、ウィンストンは密かにジュリアを愛し幸せなひと時を過ごす。
しかし、オブライエンという信頼できそうな党の幹部と面会すると状況は一転してしまう…。
全体に主人公の内面や心情が中心に描かれているせいか、ストーリーの展開やプロット自体に面白味はかんじられません。

1984の社会を構築するシステム

恐ろしいのは、政府が国民を治めるシステムがよく出来ていることです。
例えば、作中に登場する「テレスクリーン」という監視カメラ付きのテレビ。
「テレスクリーン」からはフェイクニュースや政敵の憎悪を煽る映像が流される一方、個人の日常が政府に筒抜けになる。
また、「ニュースピーク」という新しくつくられた言語は政治的、思想的概念を表す言葉自体を無くしてしまった言語のため、例えば“自由”といった概念自体を表すことができない。
つまり、「肩こり」という言葉がなければ「肩こり」じたい、どういうものか知らないというのと同じわけです。
いやいや、怖ろしい。
そして国民は「ダブルシンク(二重思考)」という考え方を身につけられるよう求められる。
作中では「2足す2は5である」といった表現で象徴されていたが、簡単にいうなら、政府が「2足す2は5である」といったら、答えは「4ではあるが、5でもあるな」というように疑問もなく自然に思える思考方法のことです。
主人公は、こうした思考方法を習熟させられるため、怖ろしい拷問をうけます。
ホント、怖ろしい。

全体主義とは

さて、では全体主義とはどのような政治体制なのでしょうか?
手許にあるカシオの電子辞書に収められたブリタニカ国際大百科事典を基に説明すると以下のようなこととなる(一部、わかりやすいよう加筆修正した)。
これを読むと、『1984』で描かれている世界はまさしくこのことだと思うはずです。

個人の自由や権利よりも全体(国家や民族、階級など)の利益が優先され、全体に奉仕することによってのみ個人の利益や幸せが増進するという前提に基づいた政治体制のこと。
一つの政党などのグループが絶対的な政治権力を全体、あるいは人民の名において独占し、歴史的にはドイツのナチズム体制、イタリアのファシズム体制に代表される。
また、ソ連時代のスターリニズムや中国の毛沢東主義、日本の軍国主義などを含む場合がある。
いずれも、一党独裁、政権は間違わないといった不誤謬性、議会民主主義の否定、表現の自由に対する弾圧、恐怖による警察政治、宣伝機関の独占、経済統制、軍国主義などといった共通点がある。
20世紀に出現した現象であり、マスコミニケーションと兵器の技術進歩によって、初めて可能になった。
従来の専制政治と異なるのは、大義が強調され、そのもとに個人の生活全般にまで統制や干渉が行われる点である。

注目すべきは「マスコミニケーションと兵器の技術進歩によって、初めて可能になった。」という箇所でしょう。
マスコミの責任というのも大きいのです。
「現在ではスマートフォンといった、テレスクリーンを発展させた機器やSNS、町中に設置された監視カメラといった、より強力なツールも登場した」と付け加えたいところです。

書かれているのは普遍的なこと

作者のジョージ・オーウェルは1903年生まれの英国人。
プロフィールを読むと頭脳明晰で学業なども優秀な人物だったようです。
本作が書かれたのは1948年。
日本の終戦が1945年なので、戦後間もなくの時代に、このような小説が描かれたのは驚きです。
ちなみにアメリカなどでは反共産主義のバイブルとしても扱われたそうですが、オーウェル自身は、そうしたことは望んでいなかったようです。
書かれている内容は、普遍的かつ、真理をついたものです。
願わくば世界中、どこの国でも、本作が自由に読めるような国家であってほしいものです。
蛇足ながら、本書の解説がトマス・ピンチョンというのは、なかなか豪華です。

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